「今日は送ってくれてありがとう、逢坂くん!それじゃあ、バイバイ!」
手を振って家に入ろうとする彼女の背を、「っ、ちゃん!」と呼び止めてしまった後で、自分の行動に自分で驚いていた。
名を呼ばれ、振り返った彼女が首を傾げてこちらを見ている。
「? どうしたの、逢坂くん」
理由を問われ、言葉に詰まった。意図して行った行為ではない。けれど、心当たりがないではない。
「いや、今日は本当に楽しかったから、少し別れるのを名残惜しく感じてしまってね…。つい、呼び止めてしまったんだ」
誤魔化すことに慣れ過ぎた己の口は、ぺらぺらと納得のいく答えを吐き出していく。
半分真実の混じったそれはいかにも真実らしく聞こえたようで、彼女は「そっか…」とつぶやくと寂しげに微笑んだ。
「私も、今日は逢坂くんと一緒ですごく楽しかったよ」
素直にそう僕に告げてくれる、その言葉に喜びを覚えながらも、本当のことを伝えてあげられないことに胸が軋むような痛みを覚えたのも事実だった。
自分の元から去っていくその背中が。
少し前までいつも遠くから見つめるしかなかったそれと重なって見えて、不安に思ってしまったんだ、だなんて。
そんなこと、何も知らない彼女に言えるはずがないじゃないか。
感傷に浸りかけた僕の意識を、「逢坂くん?」と彼女の声が引き戻す。
いけないいけない、彼女と一緒にいるのに自分の思考に沈みかけるなんて、勿体ないことをしてしまった。
彼女と一緒にいる時は、一分一秒でも無駄にしたくはないというのに。
それに、話している相手が上の空だなんて彼女にも随分と失礼な態度をとったことに罪悪感が募る。
気を悪くしてしまっていないかと、恐る恐る表情を窺うと、逆にこちらを心配そうに見つめる視線とぶつかって、どきんと鼓動が跳ねた。
「え、ええと、ごめん。少しぼんやりしてしまったみたいだ」
動揺を隠せないまま、少し早口でその場を誤魔化す。彼女は気分を害した様子もなく、「ううん、大丈夫」と首を横に振ってこたえた。
「それで、えっと、なんの話だったかな」
「あ、うん。あのね、逢坂くんさえよければ、また一緒に出かけたいな。と思って」
「……え…?」
彼女の口から発せられた言葉を即座に理解することが出来ず、間抜けな声が口から漏れる。
折角戻りかけていた僕の平常心は、またしてもどこかへ消え去ってしまったらしい。他に言うべき言葉はいくらでもあるはずなのに、何一つ浮かんできてはくれないのだから。
それっきり黙ったままの僕が彼女には奇異に映ったのか、彼女は不安げな顔で僕を見ていた。
「えっと、迷惑だったかな?」
「そんな…そんなことあるわけがないじゃないか!ただ僕は、君がそう言ってくれたのがあまりにも嬉しくて仕方ないんだ…!」
彼女にいらぬ心配をかけてしまったことが心苦しく、彼女の提案があまりにも思いがけなく、興奮のあまり感情が昂ぶる。
その勢いのまま口を開いてしまったせいで、彼女が少し呆気にとられていると、頭の中の冷静な部分が警告していたけれどどうしても抑えることなどできそうになかった。
ほんの1年前までは、彼女とこんな会話を出来る日が訪れるなんて夢のようなものだと思っていた。
いや、ぼくと彼女は結ばれる運命なのだからいつかはそうなるのだと分かっていたけれど、それでもそれは僕の想像の域を超えることのない出来事のはずだった。
それが今ではどうだ。この瞬間は確かに現実で、生身の彼女と交わす言葉は僕が一人で思い描いていたものよりも遥かに甘美で魅力的な響きをもっている。
確かな実感を伴って紡がれたこのたった一言、僕がどれほど喜んでいるのかなんて、何も知らない彼女には分かるはずがない。
それでも、一欠片でも僕のこの感動を彼女に伝えることができるならば、それはどんなに素晴らしいことだろう。
そう思うと一度回りだした舌はちょっとやそっとでは止まらない。そのままでは永遠に続くのではないかとも思い始めたとき、「あの!」という声が僕の大演説を遮った。
「逢坂くん、ちょっと落ち着いて、ね?」
羞恥で少し顔を赤らめた彼女が困ったように眉を下げている。そんな表情をひどく愛おしく思いながらも、僕は気を落ち着けるために一度深呼吸をした。
「ああ、ごめん、つい我を忘れてしまったみたいだ。君を困らせるつもりはなかったんだけれど」
「ううん、そんなに喜んでもらえて私も嬉しい。けど、少し恥ずかしいから…」
僕はつい頭から抜けていたけれど、ここは彼女の家の前で。いくら真実とはいえそんなところで自分を褒め称えられては、奥ゆかしい彼女ならば恥ずかしく思うのは当然だ。
そんなことにも気を回せないほど自分のことでいっぱいいっぱいになってしまった事実に深く自省する。
彼女に迷惑をかけるなんて、あってはならない。頭を冷やすためにも、ここは一度彼女と距離を取った方がよさそうだった。
「…時間も時間だし、今日はもう帰ることにするよ。引き留めてしまってごめんね」
「私は大丈夫だから、気にしないで」
「ありがとう。じゃあ、次の休みの予定は明日学校ででも話そうか」
「うん。じゃあ、また明日ね、逢坂くん」
「また明日、ちゃん」
手を振った彼女が家に入るのを確認して、僕も踵を返す。また明日、という約束を何度も何度も反芻するたび温かな幸福感が胸いっぱいに広がる。
取り出したイヤホンから「ただいま!」という彼女の声を聞きながら、早速今日の彼女を書きとめるために僕は家路を急いだ。
ああ、とても幸せだね