昔々、あるところにとても豊かな国がありました。
その国の王様はかつて英雄と呼ばれた立派な人徳者であり、その妻もまたかつては聖女と呼ばれていた、慈愛に満ちた素晴らしい人物でした。
そして、そんな二人の間に生まれたおひめさまも当然のように素直で真っ直ぐなとても良い子に育っていました。
その国の国民は飢えや戦争に脅かされることもなく、日々満ち足りた生活を送っていました。


ある日の事です。庭を散歩していたおひめさまは、庭と外とを繋ぐ城壁に子供一人が通れるぐらいの小さな小さな穴を見つけました。
おひめさまは今まで一人でお城の外へ出たことがありません。出かけるときはいつも父や母、乳母が一緒についていました。
だからこそ、その穴を見つけたときに、おひめさまの心にほんの少しの好奇心が湧き上がりました。
ほんの少しだけ、少しの間だけならきっと誰にも分からないわ。
子供特有の浅はかさでそう考えたおひめさまは、誰も見ていないことを確認すると音を立てないようにその穴をくぐり、とうとうお城を抜け出してしまいました。

「わあ…!」

目の前の広がった景色におひめさまはただただ感嘆の声をあげます。そこは、鬱蒼と木が生い茂る森が広がっていました。
町の方へは行ったことがあっても、森に入ったことはありません。
おひめさまは目をきらきらと輝かせ、森の中へと足を踏み入れました。


少し湿った地面を踏みしめながら、おひめさまは森の奥を目指して歩きつづけます。
段々と辺りが薄暗くなってきて、おひめさまは少し不安になってきました。
そろそろ帰らないと、抜け出したことがお母様たちにばれてしまうかもしれない。
そう考えたおひめさまが、元来た道を戻ろうとくるりと踵を返した瞬間、その耳に聞いたこともないような咆哮が届きました。
びくりと肩を震わせ、おひめさまは音の聞こえたほうを見つめました。
狼の声でも、熊の声でもありません。
あれは一体何の声だったのか、おひめさまは全く見等がつきませんでした。
その声の主を見てみたい。そう思ったおひめさまはふらふらと誘われるようにその方向へと歩き出しました。
遠くからちょっと見てすぐに逃げてしまうつもりで、おひめさまは木の陰からそっと、あの声をだした生き物がいると思われる洞穴を覗き、そしてその姿を見るとすぐにそれの元へと駆け出しました。
洞穴の中には、真っ赤な竜が横たわっていました。
おひめさまの国では、竜は神の使いであり神聖な生き物だとされています。
滅多に人が住むところへは姿を現さないとされている竜を見るのは、おひめさまにとって勿論初めてのことでした。
突然現れた人間の女の子を威嚇するかのように、竜は一度短く吼えました。びりびりと空気が震え、おひめさまは驚いて立ち止まります。
それでも、おひめさまの好奇心は消えません。
少し離れた場所から、竜を観察でもするかのようにまじまじと見ていると、おひめさまは竜が苦しそうに息をしていることと、その大きな翼が奇妙に折れ曲がっていることに気がつきました。

「あなた…怪我をしているの……?」

おひめさまは恐る恐る、傷ついた竜へと話しかけました。
竜は人間には関係が無いとでも言いたげに顔をおひめさまからそむけましたが、おひめさまはそんな事も気にせずに、再び竜に話しかけます。

「大丈夫? すごく痛そう…」

目を細めて傷を見ていたおひめさまは、突然何かを思いついたかのように明るい声で言いました。

「あのね、竜さん。私、この近くのお城に住んでいるの。だからね、今日は暗くなってしまうから無理だけど、明日怪我にきくお薬とあなたのご飯を持ってくるわ」

そう言って、おひめさまは臆することなく竜へと近づきました。

「だから、今日はこれで我慢してね?」

竜の傷ついた翼に手を当てて、おひめさまは口の中でおまじないのようなものを呟きました。
何をしているのか分からないといった様子の竜に、おひめさまは悪戯っぽく笑って、

「お母様に教わった、怪我が痛くなくなるおまじないなの。誰にも秘密よ?」

と言いました。

「それじゃあ、明日また来るわ。すぐに来るから、ほんの少しだけ待っていてね!」

竜に向かって元気よく手を振ると、おひめさまはお城への道を駆け出していきました。その後姿を、傷ついた竜はじっと見つめていました。


お城に帰ったおひめさまは、土でぐちゃぐちゃになったドレスを見た乳母にこっぴどく叱られてしまいました。
けれども、今日であった竜のことで頭が一杯だったおかげで、それほど悲しい気分にはなりませんでした。


次の日から、おひめさまは毎日のようにお城を抜け出しては竜の所へと通うようになりました。
勿論、竜の怪我を治すための薬や食べ物も忘れません。
初めの頃、竜はそんなおひめさまを鬱陶しく思っていました。
竜はとても気位の高い生き物です。人間の助けを借りるくらいならば死んだ方がましだと思っているところがありました。
けれども、吼えても威嚇しても怯えずに自分に接してくるおひめさまに、だんだんと打ち解けていくようになりました。
竜とおひめさまがであってから随分と時間が経ち、竜の怪我がすっかり治っても竜はその洞穴から出て行こうとはしませんでした。自分が居なくなればおひめさまが悲しんでしまうと思ったからです。
竜は、人間なんてどうでもいいと思っていましたが、自分に親切にしてくれたおひめさまが悲しむのを見るのは、なんだか嫌でした。
そうして、竜とおひめさまは毎日森で遊ぶようになりました。
おひめさまは幸せで、こんな時間が永遠に続くのだと思っていました。


しかし、そんな日々は父である王様が病で倒れたことにより、脆くも崩れ去ってしまいました。
王様という基盤を失った国は、だんだん疲弊していきました。そしてついに、それを好機とみた隣国によって攻められてしまいました。
町の人たちが、兵士によって次々と殺されていきました。長年の間平和というぬるま湯に浸かっていた兵士達は、全く歯が立たずにやられていきました。
阿鼻叫喚の地獄となった城内の奥で、女王様はおひめさまに言い聞かせました。

「ここに、隠し通路があるわ。あなたは今すぐお逃げなさい」
「でも、お母様はどうするの?」
「私はここであなたが逃げられるようにするわ。だから、早く!」

嫌だと首を振るおひめさまをむりやり通路へと押し出して、女王様はその入り口を塞いでしまいました。
おひめさまは泣き叫び、女王様の名前を呼びましたが、返事はありません。
入り口を開けようともしましたが、おひめさまの力ではどうすることも出来ませんでした。
仕方なく、おひめさまは薄暗い通路を辿っていきました。
足が痛くなるくらいに歩いたころ、ようやく通路の出口が見えてきました。
地面に掘られた穴から這い出すと、そこには変わり果てた風景が広がっていました。
たくさんの木々が燃やされ、未だに所々では火が燻っています。住処を負われた獣の死骸が当たりに散らばっていて、土は無残に踏み荒らされていました。
隠し通路の出口は、竜が居たあの森に繋がっていたのです。
おひめさまは泣きながら、竜の洞穴へと歩き出しました。それに理由はありません。父も母も失ってしまったけれど、あの竜だけは失いたくないとだけ考えていました。
洞穴の場所まで着くと、事態を察したのでしょう、竜は洞穴の外へと出ていました。その周りには、敵兵の焼け焦げた死体が転がっています。

「竜、さん」

かすれた声で、おひめさまは竜を呼びました。竜はおひめさまに気がつくと、口にくわえていた敵兵をぶんと遠くへ投げ捨てました。

「皆、居なくなってしまった。お父様もお母様も死んでしまったわ」

そう呟いたおひめさまを慰めるように、竜はおひめさまへとすりよりました。

「竜さん、お願いがあるの」

おひめさまの言葉に、竜は続きを促すように首を傾げました。

「みんな燃やしてしまって。私から全てを奪ったものを、みんな」

その願いを聞きとげると、竜は了解のつもりなのか一声吼えると、その翼を広げまっすぐに城のある方向へ飛び立っていきました。
おひめさまは、その姿を泣き腫れた目で見つめていました。


全てが焼け野原となった土地で、おひめさまだった少女は竜に向かって言いました。

「私ね、お母様や皆の仇をとろうと思っているの。竜さん、私とずっと一緒に居てくれる?」

少女の問いに竜は一際大きな咆哮を上げました。
少女はそれを見て満足そうに笑うと、竜の背へとよじ登りました。少女が座りきったことを確認して、竜は翼を広げます。
少女の旅は始まったばかりです。