「ボス、オ客サンダヨ」

たった今、オ疲レ様デスと言って帰っていったシンゲンがなぜか駅員室へと戻ってきて、そう告げるものだからノボリは目を丸くした。
来客の予定はあったかと記憶を辿ってみても一向に思い当らず、抑々思い直してみればもうすぐ日付も変わろうかというこの時間に来客など来ようはずもない。

「わたくしに、ですか?」
「ハイ。ソレジャア、今度コソオ疲レ様デシタ」

帰ろうとするシンゲンに相手は誰かと尋ねてみても、行ッタラ分カリマスと返され、その意味を問う前に扉の向こうへと消えていってしまった。
どうにも釈然としないが、待ち人がいると言われれば放置するわけにもいかない。
残る駅員たちに「少し席を外します」と告げて、途中まで仕上がった書類を自分のデスクの上に置いた。
従業員通路を通って表へと出た所で、何処に向かえばよいのかを聞き忘れたことに気づいて自分の迂闊さに小さく舌打ちをする。
さて、どうしましょうか。迷った挙句引き返そうとしたノボリを深夜の地下鉄構内には大凡似つかわしくない明るい声が引き留めた。

「ノボリさーん!」
「な…、様!?」

出入り口の方向から片手を軽く振って走り寄ってくるその姿にノボリは少なからず驚いた。
足を動かした拍子にひらりと舞うスカートから覗く肌色が目に眩しい。夜も更けた時間帯に外を歩くには少々、いやかなり心許ない服装にノボリは頭を抱えたくなった。
ギアステーション内で不埒な行為など自分が許すはずもないが、ここへ来るまでに不逞なの輩に襲われでもしたらどうするつもりだというのだ。あまりにも無防備すぎやしないか。
けれど出会いがしらにそれを注意するわけにもいかず、ぐっと堪えてノボリはあたりさわりのない言葉で口を濁した。

「あー…このような時間に、どうなさったのですか?」
「ノボリさん今日仕事上がったら明日はお休みだって聞いて会いにきちゃいました!」
「わたくしに、会いに?」
「はい!最近忙しくて全然会えなかったし、明日お休みってことはお家に帰るから、ここの出入り口で待ってたら会えるかなって」

その言葉に、ノボリは頬を緩めるべきかはたまたその行動力に呆れるべきか一瞬本気で悩み、結局そのどちらもせず全く別の、どちらかといえばかなり優先順位の低い疑問をぶつけるにとどまった。

「…ちなみに、その情報はどこから?」
「クダリさんからです!」
「えぇ、そうでしょうね…」

ある意味予想通りの返答に、ノボリは今度こそ頭を抱えた。
行動派のにそんなことを教えればこうなることぐらい想像に安く、クダリももう少し行動に責任を持てないものか。腹いせに自分の分の書類をデスクに紛れ込ませてやろうかと邪な考えすら浮かぶ。
腹の中でノボリが黒い考えを巡らせているのを知ってか知らずか、は尚も明るく話を続けた。

「それで待ってたらシンゲンさんに会って、話をしたらじゃあボスを呼んでこようかって言ってくれたんでお言葉に甘えちゃいました」
「そう、だったのですか」

シンゲンのどこか微笑ましそうな笑顔の理由を知って、ノボリは少しだけ顔を顰めた。
部下に示しがつかない、などと尤もらしい理由を思い浮かべてみるが、結局はただの恥ずかしさからくる現象だ。けれどそれを見たは不安気に首を傾げ、ノボリの顔色を窺った。
「あのー…迷惑でした?」
「いえ!そのようなことは全く」
「なら良かったです。ノボリさんまだお仕事残ってるんですよね?邪魔になったら悪いし、私もう帰りますね。少しでもノボリさんにあえて嬉しかったです!」

それじゃあ!と頭を下げて帰ろうとするをノボリは慌てて引き留めた。

「お待ちください」
「はい?」
「わたくしあと少しで仕事も片付きますので、どうかご自宅までご一緒させてくださいませんか?」

こんな夜遅くにこんな恰好のを一人で帰すことなどできるはずもない。ノボリの提案にの表情がぱあっと明るくなる。

「え?いいんですか!?」
「はい。用意がございますので少々お時間いただくことになりますが」
「そんな!全然大丈夫です嬉しいです!!」
「では、ここではなんですし、中でお待ちください」

スタッフオンリーと書かれた扉を押し開いて促せば、は好奇心に目を輝かせた。
そういえば、がここへ入るのは初めてだったかと思い当り、素直な反応に苦笑が漏れる。
応接室へと案内しながら、ちょうどいい機会かと、今日出会った時からずっと秘めていた小言を口にする。

様、一つよろしいでしょうか」
「なんですか?」
「今度からはこのような場合、時間帯というものを考えてもう少し、露出を控えた格好をしてくださいまし」
「あ、実はこれもクダリさんからのアドバイスで」
「は?」
「スカートで行ったら絶対にノボリさんが帰り送ってくれるよって」

ノボリの脳内にクダリのにやにや笑いが浮かんだ。多少残っている仕事は全てクダリのデスクに積み重ねてしまおうとノボリは心の中で決意した。
「クダリさんの言うとおりになっちゃいました。流石双子ですねー」などと、ノボリの気持ちも知らずに呑気に感心しているが逆に羨ましい。

「クダリは…、他になにか言っておりました?」
「え?えっとですね…そうだ、でも送りグラエナには気を付けてね!って言ってました」

ぴしり、とノボリが固まった。
本当にあの愚弟はいったい何を吹き込んでいるのか。ノボリの脳内で更にクダリのデスクに積む書類が追加される。

「でも、ノボリさん」
「どうなさいましたか?」
「送りグラエナってどういう意味ですか?」

純粋な表情で聞いてくるにまさか本当のことを言うわけにもいかない、が、どこかクダリに遊ばれているようでそれも気に食わない。
どうするべきか少し考え、ノボリは最終的に自分の気持ちに素直に従うことにした。

「では、少々目を瞑っていただけますか」
「あ、はい」

言われるがまま、目を瞑ったに満足げに頷いて、その肩に手を置く。

「送りグラエナというのはですね、女性をお家へとお送りしたさいに―」

言葉を切り、肩に置いた手を頬へと移動させる。そしてそのままの顔を上へ向かせると、その唇を自分のそれと重ねた。

「―このようなことをする、男のことでございます」

顔を赤くして、ぱくぱくと口を開閉するしかできないの姿に溜飲を下げ、にっこりと、ノボリは我ながらわざとらしいほどに極上の笑みで微笑んだ。