家の鍵を鍵穴に差し込んで捻るとき、私はいつも怯えている。もしこれが開いていたらどうしよう。捻ってもなんの手ごたえもしなかったら?
そんな考えを巡らせながら、恐る恐る鍵を捻り、そして確かな手ごたえとカチャンと錠の開く音がするといつも安堵の溜息を吐く。良かった、今日は大丈夫だった、と。
私がストーカー被害に悩まされはじめたのは数か月前のこと。
一番最初は、郵便受けに投函されていた差出人不明の手紙。まるで血で書いたような赤黒い文字でただただ「愛してる」の5文字だけが延々と綴られたその不気味な手紙を、性質の悪い悪戯だと破り捨てたのが始まりだった。そこからだんだんとエスカレートしていった行為は今ではもう最初のあの手紙が可愛いと思えるほどだ。
荒らされた郵便物とその代わりとでもいうようにポストに残された盗撮写真入りの手紙。外を出歩くたびに感じる視線。いくら着信拒否をしても、止まることのない無言電話。
警察にも相談したけれど、犯人の手掛かりになるようなものも全然なくて、結局は私が耐えるしかないというこの現状に、そろそろ心が折れてしまいそうだ。
それでも私がどうにか頑張っていられるのは、恋人であるクダリさんが居てくれるから。
サブウェイマスターという忙しい仕事をしているのにもかかわらず、私の相談を警察なんかよりずっと親身になって聞いてくれて、仕事の合間を見つけては私を家まで送ってくれたり、不審物の処分を手伝ってくれたり、とてもお世話になった。
そしてそれがきっかけでクダリさんみたいな素敵な人と恋人になれたのは、私が唯一この事態に感謝できることかもしれない。
とはいえ、良かったことと言えばそれぐらいで、あとは本当に嫌になることばかりだ。そろそろ、本当に犯人に捕まってほしい、と思う。
今日は何事もなく家に帰り付けたことに安堵して、リビングのソファーに身体を預けた。
その時、まるでそれを見計らったかのように、電話が着信を告げた。「ひ、」喉の奥から悲鳴が漏れる。
もしかしたら、ただの、普通の電話かもしれない。そんな微かな希望を抱いて、ディスプレイを確認する。『非通知設定』の文字に背筋が凍った。
怖くて、受話器を取ることがどうしてもできない。そうしているうちに、留守番電話へと切り替わった電話機は決められたメッセージとピーという電子音を吐く。
「…」
相手の息遣いすらも聞こえない、完全な無言電話だ。何も聞こえないことに、むしろ恐怖を煽られる。
相手もそれをわかっているのか、私に聞かせるようにじっくりと間を持って、そしてメッセージの録音時間が切れる直前でブツッと通話が終了した。間髪入れずに響く新たなコール音。
耳を塞いでも容赦なく聞こえてくるそれに耐えきれず、電話線を引き抜いた。
途端に静かになった室内で、膝から崩れ落ちるように床に座り込む。
がたがた震える身体を抑えたくて、膝を抱えてぎゅっと縮こまってみても、全然震えは収まってくれない。
誰かに縋っていないと壊れてしまいそうで、私は無意識にライブキャスターを手に取ると、クダリさんに電話をかけていた。
仕事中じゃなければいい、祈るような気持ちでコール音を聞く。1コール、2コール、3コール目で画面に現れたクダリさんの顔に、安堵が胸いっぱいに広がった。
「、青い顔してる。また何かあった?」
電話に出るなりそんなことを聞いてくるクダリさんはとても心配そうで、そんな酷い顔をしていたのか、と少し驚く。
「クダリさん、あの、今お仕事中ですか?」
「ううん、ぼく今日はもうお仕事終わってるから大丈夫!それで、どうしたの?」
「あ、さっきまた無言電話かかってきてて、それで気づいたらクダリさんに電話してました。疲れてるのにこんなことで電話しちゃって、ごめんなさい…」
「怖くて、ぼくに電話してくれたんでしょ?ぼくのこと頼ってくれて、嬉しい!」
それを証明するかのように、画面の向こうでクダリさんが笑顔を溢れさせる。つられて、私も笑って、空気が少しだけ和む。
「あっそうだ、、ぼくずっと言わなきゃって思ってたことがあるんだけど、」
ふいに、クダリさんがぽんと手を打った。
「なんですか?」
「このまえさ、古くなったストッキング捨てたでしょ?ああいうの、元が分からなくなるぐらいボロボロにしてから処分しないとダメ!」
「そうなんですか…、気を付けますね」普通にそう返事をしようとして、違和感に気づいた。なんで、クダリさんがそんなこと知ってるんだろう。
その疑問が顔に出たのか、クダリさんが「なあに?」と首を傾げて聞いてくる。
「え、っと、…なんでも、ないです」
胸に走った不安を、気のせいだと振り払う。多分私が、何かの拍子にクダリさんにそんな話をしたんだろう。そうに決まってる。
「そう?あ、それとね、いくら疲れてるからって昨日みたいにごはんも食べずに寝ちゃうの、やめよ?が身体壊したら、ぼく悲しい」
どうして、クダリさんが昨日の私の行動を知っている。
何だろう、これじゃあまるでクダリさんがストーカーみたいじゃないか。いや、みたいなんかじゃなくて、本当は、もしかして――
思い至ってしまった最悪の事実。さあっと顔から血の気が引いた。一気に、今さっきよりも顔色を悪くしたであろう私の耳へ、クダリさんの笑い声が響く。
「ふふ、あのね、ぼくずっとのこと見てた。いまも、ずっと」
「何、言って…?」
「そうやって膝抱えてる、すっごくかわいい!今すぐぎゅってしてあげたい!ね、、今日のワンピースこのまえ一緒にデートしたときに買った奴だよね?やっぱりそれすっごく似合ってる。試着したときも思ったけど、はほんとに女の子らしい色似合うよね」
ライブキャスターには私の顔しか映っていないのだから、膝を抱えてるなんて、そんなことクダリさんがわかるはずもない。
それに、今日はクダリさんに会ってなんかいないし、そもそもバトルサブウェイにも近づいていないから、クダリさんが、私の服装を知っているなんてこともあるわけがないのに。
認めたくない、でもそうとしか考えられなくて、私は部屋の中を見回す。どこか、なにかおかしいところがあるはずだ。じゃないと、今の状況を説明できない。
「あははっ、無駄だよ。カメラ、絶対見つからないようなところに隠してるから!」
私の悪い予想を肯定するように、クダリさんが画面越しに嗤った。ああやっぱり、隠しカメラがあるんだ。その事実がすとんと胸の中に落ちてきて、ぞわぞわとした寒気が全身を襲う。
かたかたと、意思とは無関係に震え始めた身体。それを見ているんだろう、クダリさんが心配そうな声を上げる。
「、寒いの?それとも、怖いの?あのね、ちょっとだけ、待ってて。ぼく、すぐにそっちに行くから!」
続いて、あはははははっと電話口で弾ける哄笑。止まらない笑い声が恐ろしくて、通話終了ボタンを連打した。
通信が切れて待ち受け状態に戻ったライブキャスターだけど、またいつ電話がかかってくるかもわからない。
どうしよう、どうしよう。まさかクダリさんが。でも、そう、クダリさんなら、不可能じゃないんだ。私の家の合鍵だって、持っているんだから。
そこまで考えてはっとした。そうだ、クダリさんは合鍵を持っているんだから、来ようと思えばいつだって、私の部屋に入ってくることができる。
いま、クダリさんは何と言っていた?すぐにいくねって、ちょっと待ってて、って、つまり、そういうことなんじゃないか。
「や、やだ…助けて……だれか…!」
静まり返ったライブキャスターが逆に恐ろしい。嫌だ、怖い、助けて。譫言のように繰り返しながら、頼りになる人を考える。
警察に連絡を…でも、クダリさんは有名な人で、そんな人がストーカーだなんて言っても信じてもらえないかもしれない。ただの悪戯だと思われたら、私はいったいどうすればいいの?
焦る思考の中で、ふいに思い浮かんだのは、皮肉にもいまや私の恐怖の対象となってしまった彼と瓜二つの人だった。
わたくしがパソコンの画面をじっと注視していると、傍らに置いていたライブキャスターがぴかぴかと光リ着信を伝えました。
画面に表示された名前は、わたくしの想像通りのもの。逸る気持ちを抑え、努めてわたくしは無表情を装い、通話ボタンを押しました。
「―もしもし」
「ぁ、ノボリさ、あの、わたしっ」
「どうなさったのですか、そのように慌てて」
「あのっ、わた、し、頼れる人、他に思い浮かばなくてっ、こわく、て」
「…様?泣いていらっしゃるのですか?」
「――っノボリさん、助けて、」
なんと甘美な響きなのでしょう。様が、わたくしを頼り助けを求めていらっしゃるのです。クダリではなく、このわたくしに!
「今はご自宅でございますか?」
「は、い」
「事情は分かりませんが、直ぐそちらへ向かいます」
「あ、ありがと、ございますっ…!」
先ほどまでの恐怖に怯えきった顔も大変ブラボーでございましたが、今の、涙を零しながらそれでも希望に縋るその表情も筆舌に尽くしがたいほどに可愛らしい。
出来ることならばこのままいつまでもそのお顔を眺めていたいのですが、今は様のご希望通り、すぐさまその元へと駆けつけることが先決です。
断腸の思いで通話を切ると、近くにかけてあった黒いコートへと袖を通しました。こうなることは予想済みでしたのでわたくし、既に出かける準備は万端でございます。
パソコン画面に映る様を指でなぞり、「今、参ります」と声をかけました。この声も、様の元へと届けばよいのに。
仕方がないこととはいえ、あちらの声は聞こえるのにこちらの声は聞こえないというのは存外、不便なものなのですね。
ああそうでした、出かける前に少しばかり拝借していたクダリのライブキャスターも、きちんと元の場所へ戻しておかなければ。