華やかなバトルばかりが取り上げられがちですが、デスクワークを主とする様々な雑事もまた、サブウェイマスターとして欠かせない仕事でございます。
今日もまた何かと理由をつけて逃げようとするクダリを捕まえて、黙々と書類を片づけておりますと、ふいに向かいのデスク、つまるところクダリから視線を感じました。
ちらり、顔を上げて確認すると、クダリの視線とわたくしのそれがかち合って、それに気づいたクダリが何かを誤魔化すようにへら、と笑いました。

「クダリ、手が止まっておりますよ。わたくしではなく、書類を見てくださいまし」
「んー、うん」

そう返事をしたものの、クダリの手はすっかり動きを止めており、その目は、未だわたくしの方へと固定されたまま。はぁ、とわたくしの口から自然とため息が出てきます。

「…何か、わたくしに言いたいことでもあるのですか」
「ん…なんていうか、さ」
「なんですか、はっきりなさいまし」

妙に歯切れの悪いクダリに先を促すと、少し逡巡したあとでクダリがぽつり、小さく口をひらきました。

「ノボリ、最近元気出てきたのかなーって、思って」

クダリがわたくしの顔色を窺うように、じいっとわたくしを見つめてくるものですから、少々居心地が悪く感じます。
その感覚を振り払うため、ごほん、一つ咳払いをしてからわたくしはクダリに問いかけました。

「そう、でしょうか。あなたにはそう見えますか?」
「うん。ノボリ、前は仕事してるときも、家にいるときも、心ここに在らずって感じでみんな心配してた」

クダリに言われて思い返してみても、自分ではそのような自覚はなかったものですから驚きました。

「そ…そうだったのですか。心配をかけていたとは、皆様にも申し訳ないことをしてしまいましたね」
「ううん、仕方ないよ」

クダリが首を横に振って、それからぱっと顔を挙げました。

「でも最近、ちょっとずつ調子が戻ってる気がする!これって、良い傾向。多分、ノボリにとっても、にとっても、良いこと」
「わたくしも、いつまでも落ち込んでいるわけにはまいりませんしね。そんなことでは、に叱られてしまいます」
「…そうだね、ぼくもそう思う、かな」

こうやって、それが普通になるの、ちょっと寂しいけど。そう付け足して悲しそうな表情で微笑むクダリに、わたくしも静かに頷いて、そっと目を閉じました。


というのはわたくしの愛する恋人の名前でございます。彼女は、ポケモンバトルこそどちらかといえば不得手な方でした。
しかしそれでも何度も諦めることなく、少しずつではあるものの確実に成長しわたくしに挑戦してくる姿に、わたくしはいつしか強く心惹かれておりました。思いの丈を告白し、晴れてお付き合いすることになったときには、柄にもなく子供のように喜んだものです。
そんな彼女が交通事故に遭ったと聞いたのは、つい二ヶ月ほど前のこと。一日の業務を終わらせわたくしがその知らせを聞き駆けつけた時にはもう、彼女は息を引き取った後でした。
多少の擦り傷はありましたが、まるで眠っているだけのようなその顔を見て、もうわたくしを呼ぶ彼女の声を聴けないのだと、もうあの煌めく眩しい笑顔を見ることも出来ないのだと、誰が信じられましょうか。ぐらぐらと揺れる視界のなか、これが幻であったならば、と、心の底から願ったのでした。
まるで夢の中にいるように全てがはっきりとしない意識のまま、わたくしがようやく現実に立ち返ったのは、両親も身近な親戚もいなかった彼女の骨壺がわたくしへと手渡され、それを両手で抱え、その重みをこの身で知ったときでした。


「ただいま帰りました」と、誰もいないのにそう声をかけてしまうのは長年染みついた習慣が抜けないため。
以前ならば、が笑顔で出迎えてくれたものですが、今はもう、望むべくもありません。わたくしは足早にキッチンへと歩を進めました。
時間としてはもう深夜を回っていましたが、最近は毎日、自宅で食事をすることを日課にしております。
この後すぐに就寝することを考えて、軽いメニューにしようと慣れた手つきで簡単なスープを作りました。味見をして、上手くできたと一人納得したわたくしは、徐に振り返るとキッチンのテーブルの上に鎮座している箱を丁寧な手つきで開けました。
中に入っているのは、陶器製の黒い壺。俗にいう、骨壺でございます。この中に入っている灰は、もちろんのもの。
元々はこんなにも重たいものなのかと驚愕したものですが、当初と比べれば随分と軽くなったその壺の蓋をあけ、半分ほどに減ってしまった中身を見て思わず小さな笑みを漏らしました。
さらさらと積もる灰白色の、この一粒一粒が、そのものなのでございます。焼かれ、灰になった自身。そう思うと、愛おしさすら込み上げてくるのですから不思議なものです。
一気に消費してしまっては勿体ないので、1回に使う量はスプーン一杯分。掬い取ったそれを、スープの中へと溶かし入れました。口に含み、舌で味わい、じっくりと時間をかけて嚥下するとじわじわと食道から胃へと暖かな液体が滑り落ちていくのを感じました。
死んでしまっても、こうすればわたくしと一緒に居られる。いいえ、は、今、わたくしの中で確かに生きているのです。もう何があっても、わたくしたちが離れ離れになることはありません。嬉しい、嬉しいでしょう?、あなたも、嬉しいと、思ってくれますでしょう?目を瞑ると、今でも鮮やかにの顔が浮かんできます。にこり、生前と変わらずわたくしを魅了して止まぬ笑顔ではわたくしに微笑みかけました。

「うん、すごく嬉しいよ。これで、ずっと一緒ね、ノボリ」

ああ、ああ!鼓膜を震わせるこの声も、全て全て、わたくしのものなのです。これ以上に幸せなことなど、この世にはもう存在しない。