少しでも料理をする人間にとって、やはり「美味しい」という一言は、特別なのではないかと思うのです。
誰しも、自分の作った料理を誰かが美味しいといって食べてくれる、それだけでこちらまで嬉しくなる、そういうものなのではありませんか?少なくとも、わたくしは、常々そう思っております。
わたくしの作った料理を美味しい美味しいといってそれはもう幸せそうに食べるのその笑顔を見るたびに、わたくしに訪れる例えようのないほど幸福感を、が知る由などなく全てわたくしの独り善がりの自己満足だとしても。
が喜ぶ料理はなにか、そう考えに考え抜いてわたくしはとうとう、究極の食材を思いついたのでございます。
誰だって嫌いなものより好きなものを食べたいと思いますでしょう?はいつもわたくしのことを大好きだと仰っていましたから。わたくしのすべてが好きだと、そう仰っていましたから。でしたら、わたくしのすべてを捧げようと思ったのです。わたくしを、食べていただきたいと。
ぶつ、と自分の皮膚を切り裂く感覚もその後訪れる痛みも、何度やっても慣れることはないのかもしれません。
腕に走らせた包丁はいともたやすく傷をつくり、たらたらと流れ出す血液をボウルに注いでいく単調な作業。ある程度まで溜まってしまえばそれでいい、わたくしの目的は自傷ではないのですから。
予め用意しておいた布を患部に押し当て止血する、幾度となく繰り返したおかげか今では実に手際よくそれを済ませることができるようになりました。
普段ならばこれで終わらせておくところですが、今日はなにしろ特別な日、ならばそれに相応しい食材を用意するのもまた当然と言えるでしょう。
この日のためにとわたくし、ここ数か月は食事にも気を遣い、食生活のみにおいては至極健康的だったと自負しております。
欲を言えば適度な運動と睡眠もとってこの記念すべき瞬間を迎えて頂きたかったのですが、わたくしにも仕事がある以上そこまで拘ることはやはり難しく、それだけが心残りでございます。
ひた、と太腿に包丁を添え、ひとつ深呼吸。これから味わう、皮膚を少々裂くのとは桁違いの痛みを想像するだけで心臓が凍るような気がいたしましたが、これも全てはのために。

「っ、ぐ、あああああああああっ!」

痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛っああああああああああああああああぁぁあああぁあああああ――っ!!
わたくしの想像など容易く超えた激痛は今までに体験した痛みなどとは比べ物にもならないほどの衝撃で、獣じみた悲鳴が喉の奥から溢れるのを止めることなど到底不可能でした。
心臓も、脳味噌も、わたくしの全ての器官という器官、感覚という感覚が、全てそこに集まったかのような錯覚すら覚えるほどに、今のわたくしを占めているものは熱さにも似た痛みただそれだけ。
それでも、少しずつ、包丁を動かし肉を削ぎ落としていかなければ。ぶちぶちと繊維の切れる感触。熱い。痛い。迸る血がわたくしの足も手も包丁も、全てを赤く濡らしていきました。
気が狂ってしまうかとも思えるような痛みも、の笑顔を思えばこそ。がこの世に生を受けた喜ばしい日を彩るための、最高のディナーを用意するには、が世界で一番大好きなわたくしが必要なのでございます。
最後は半ば引きちぎるかのような形で、わたくしの手に残った肉塊はこうしてみれば他の食用肉となんら変わりはないようにも見えました。
未だ温もりの残るそれをとりあえずまな板の上に置き、まずは足の応急処置をしなければ料理どころではありません。
とはいえ、ここまで大きな傷は初めてで、止まる気配のない激痛と流血を押さえる方法と言えば、素人のわたくしには一つしか思い浮かびませんでした。
左手で患部を上からタオルで押さえ、右手で腰に着いたホルダーからモンスターボールを一つ取り出し、宙へと投げました。
赤い光とともに現れたシャンデラはわたくしの怪我を見ると驚いた様子でわたくしのもとへすり寄りました。

「シャンデラ、お願いがあるのですが、ここを、焼いていただけますか?」

ここ、と指さしたのは勿論傷口。自然に塞がらぬ傷ならば、焼き塞いでしまえばいいだけの話。
醜い傷痕は残るでしょうが、表に出るような場所ではありませんし、何よりその傷痕を見るたびに、わたくしは今日この日のことを思い出すことが出来るのです。
困惑した様子のシャンデラに、大丈夫ですから。と声をかけると、恐る恐るといった風ではありましたが、シャンデラはれんごくを繰り出しわたくしの太腿を焼いてくださいました。
じゅう、と肉の焼ける匂いが辺りに漂いましたが、熱さや痛みはそれほどでもなく、少々拍子抜けしつつわたくしはシャンデラにお礼を言ってボールへと戻しました。
身支度を整え、改めてまじまじとまな板の上の肉を見つめてみると、今までそれがわたくしの一部だったと思うと少々不思議な感覚もいたします。
皮を剥ぎ下ごしらえをしてしまえば見た目はまず普通の肉で、言わなければこれが人肉だなどと気づかれることはないでしょう。
あとはこれを調理するだけ。もうすぐ、もうすぐが、わたくしをその身に取り込むのです。そのためにも、最高の手料理を提供しなければ。
高鳴る胸を抑えながら、わたくしは作業を再開いたしました。


「お邪魔しまーす!」
「いらっしゃいまし、

約束の時間になり、わたくしの家を訪れたはわたくしの顔を見るなり首を傾げました。

「ねえ、ノボリ。なんか顔真っ青だけど大丈夫?」
「そう。ですか?最近仕事が忙しかったからでしょう、心配せずとも大丈夫ですよ」
「ふうん?ノボリがそういうならいいけど…」

脳内麻薬でも出ているのか、自分ではあまり気にしていませんでしたが、考えてみれば相当量の失血をしているはずで、成程、顔色が悪いというのも本当のことなのでしょう。
しかし、わたくしの体調など、今は重要ではありません。今はなによりも、に料理を食べて頂きたい。
わたくしは急かすようにをダイニングへと招待しました。

「うっ、わああああ!すごいごちそう!!」

テーブルに並べられた料理の数々を見て、はそう歓声をあげました。
その素直な反応には、思惑など抜きにしても表情が緩むのは仕方がないと言えるでしょう。
わたくしに勧められるままに席へ着くと、もう待ちきれないといった風にわたくしを見てくるものですから、本当に、可愛らしい。

「どうぞ、あなたのために作ったのですから、食べてくださいまし」
「いただきます!」

元気な挨拶。そしてすぐさま料理を口に運び、幸せそうに頬を綻ばせてみせるこの表情、これを見るためだけにわたくしは存在しているといっても過言ではないでしょう。

「あー、おいし!もう、なんでノボリこんなに料理上手なの!」

女としてなんかむかつく!と文句を言いながらも、は手を止めようとはしません。

「文句を言うのか食べるのか、どちらかになさいまし」
「じゃあ食べる!」

きっぱりと言い切って、そして宣言通り黙々と食べ始めたを満足げな表情で眺め、わたくしは今日のメインディッシュを取りにキッチンへと行きました。
今も尚弱火でコトコトと煮込み続けているそれを掬って盛り付け、に差し出すと、は目を輝かせ「わ、まだあったの!?」と驚きました。

「ええ、今日はあなたの誕生日ですからわたくし腕によりをふるわせていただきました。こちらがメインディッシュになります」
「わ、美味しそう! いただきます!」

言うが早いか、ぱくりと一口口に運び、美味しいと独り言のように零す。

「ん、美味しいけど、これ、何肉?今まで食べたことない味がする」
「今日のために用意した特別な肉でございます」
「特別な? 何?」
「当ててご覧なさいまし」
「ええー、鶏とかじゃないもんね? なんだろこれ」

素材を吟味するように、もぐもぐと口の中で動かしているそれは、わたくしの肉ですよ?と教えたら、一体どんな反応を返すのでしょうか。
それを知りたいとは思う反面、まだこの時間を楽しんでいたいという気持ちもします。
何も知らないが、おいしいおいしいと言ってわたくしの作った料理、ひいてはわたくし自身を食べる姿を眺めていると、自然と頬が上がっていくのを抑えきれず、わたくしは片手で口元を覆い隠しました。
のことですから、わたくしが笑っているのを見れば、どうしたのかとしつこく聞いてくるでしょう。ああ、しかし、どうしても止められない。
の身体の中で、わたくしが糧となり、これからも共に生き続けるのです。これが、笑わずにいられる、わけがない。

「? ノボリなんか楽しいことでもあるの?」
「いえ、ただわたくしの料理を食べているとき、は本当に幸せそうな顔をしているものですからわたくしも嬉しくなってしまいまして」
「だってほんとにおいしくて幸せなんだもの。でも、私がノボリの手料理食べてるときのノボリの幸せそうな顔見るの好きだな」

その言葉を聞いた時の、わたくしの心中の昂ぶりが如何程のものか。
の喜びがわたくしの喜びであるのと同時に、わたくしの喜びはの喜びでもあるのです。なんと素晴らしいことでしょう。
自己満足だと思っていたことが報われたこの瞬間の、何物にも代えがたき幸せ。これだから、のために料理をするのは止められない。
何時の日か、にわたくしの全てを食べて頂くことが、わたくしの最大の幸福なのでございます。