「髪、痛んでるね」
ちょうどお互いの休みが重なったからという理由だけでなんとなくどちらかの部屋へ遊びに行くのが習慣となってから長い。
前回はの部屋だったので今回はノボリの部屋で、特になにをするわけでもなく思い思いの時間を過ごす、そんな気怠い午後。
ノボリの読んでいるポケモン雑誌を、後ろから覗き込むような形で一緒に眺めていたが、ふいにノボリの髪を一房掬った。
雑誌から目を離すことなく、ノボリがそれに答える。
「最近忙しかったので」
「それはわかってるけど…駄目だよ、きちんと最低限のケアはしないと。折角綺麗な髪なのに」
サラサラと零れ落ちる灰色の髪を弄びながらがつぶやいた。それから、思い出したかのように「それに、肌もね」と付け加える。
言われて思い返してみれば、最近は連日の激務のせいでそういったことが疎かになっていた。
「鋏貸して」
言われるがままに、ノボリはへ鋏を手渡す。
「痛んでるとことか切るよ?」と言われたので、「ええ、お願いします」と了承した。
「いっそのこと、短くしてしまいましょうか」
掬い上げられた毛先に鋏が入れられる音を聞きながら、何の気なしにそう零すと、すぐさま背中から反発の声が上がった。
「それは駄目」
「?なぜ、でございますか」
「ノボリは髪長い方が良いよ。私はそっちのが好き」
そうストレートに言われてしまえば、それに抗う気すら起きなくなる。抑々、最初から抗う気などどこにもないのだけれど。
「様がそう仰るのなら、やはり伸ばしたままにいたしましょう」
素直に頷けば、背後でくすくすと笑う気配。その空気があまりに優しくて、ノボリも自然と顔が綻ぶ。
髪を梳く指の感触と、時折聞こえる鋏の音がくすぐったくて身じろぎをすると、「動いちゃだめだよ」と制された。
「し、しかし…くすっぐたいのですが」
「でも手元が狂ったらどうするの。たった今褒めた髪が自分のせいでショートになるとか嫌よ私」
確かに、の方は刃物を持っているのだから、一歩間違えば大惨事になりかねない。
髪を切りすぎるだけならばまだいいが、流血沙汰となった場合を想像して、ノボリは背筋を震わせた。
自分が痛いのも嫌だが、それよりももし自分が怪我をしてしまえばはそれを一生後悔するだろうという事実の方がより痛い。
これは、終わるまで決して動かないようにしなければ…。
固く決意して、ノボリは自分の膝に置いた雑誌に集中することにした。
ページをめくる程度の動きならば、の邪魔にはならないだろうし、なによりくすぐったさを感じずに済む。
そう考え、雑誌に視線を移す。ホウエンにあるというポケモン専用お菓子の特集ページを見て、これは興味深いなどと考えていると背後でが口を開く気配がした。
「……、もしもの時はちゃんと責任取るけど」
文脈から先ほどの会話の続きということは判断できるが、それにしてはずいぶん間の開いたの言葉に、完全に雑誌へ意識を向けていたノボリは「え」と一瞬顔を雑誌から上げそうになった。
「責任、でございますか?」
「うん。私がもらってあげるよ、ノボリのこと」
冗談のような口調でさらりと告げられ、ノボリは何を言われたのか理解するために数秒を要した。
振り返りたい。振り返って、の目を見て、どういうことなのかを問いたかった。しかし、未だ断続的に聞こえる鋏の音が、ノボリの行動を制限する。
固まってしまったノボリの耳を、の笑い声が擽った。
「まぁ、もしものことがなくても貰ってあげる予定だけどね」
今度こそ、ノボリは振り向いた。けれど、開いた口から発せられるはずの言葉は、に塞がれた所為で音にならず溶けていく。
質問することなど許さないとばかりに、深く深く口づけられ、ノボリはぎゅっと目を瞑った。
永遠に続くかと思われたそれは、始まったときと同様に唐突に終わり、恐る恐る目を開けたノボリは予想以上に近い顔の距離に赤面する。
「一緒に住もうか、ノボリ。そしたら、私が毎日髪の手入れも、肌の手入れもしてあげる」
「きっと楽しいと思うよ。どう?」自信に満ち溢れたセリフとは対照的に、の瞳は不安で揺れていた。
その瞳から読み取れたのはこうして行動に出してしまった以上、この結果がどう転がっても元には戻れないのだという覚悟。
ノボリはを心から愛おしいと思った。彼女はここまで覚悟を決めてくれた、なら自分はどう応えるべきなのか?答えはたった一つしかない。
それを伝えるかのように、今度はノボリからへと口づけた。
これは決して恋などではない
(紛れもなく、愛だ)